椎名林檎研究(vol.23)

やっぱり目をそらせない椎名林檎を正面から見据えて

正体をみれたらいいな、というわけで書いています。


私小説的な林檎(4)

今回は久しぶりに哲学的に考察したいと思います。

 

私が見るところ、椎名林檎は『無罪モラトリアム』では、自分を裏切る人生に対して

必死に向かっていった過去を描いていたように思います。そして、しばらく休養した後、

1999年後半になって復活してきたときには、人生に対して、というよりはリスナーに対して

挑発的・演技的な態度をとってくるようになりました。象徴的なのが、『本能』のビデオ

クリップでの看護婦姿ですね。

 

そして彼女は『勝訴ストリップ』という2ndアルバムを出してきました。『罪と罰』を境に

全てが対照的に配置されています。このような配置をとり、なおかつシングルと全く

同じ音源を収録した以上、『罪と罰』に深い思い入れがあることは容易に想像がつきます。

 

その中でも象徴的な歌詞は(私にとってですが)、「あたしが望んだこと自体 矛盾を優に

超えて 一番愛しいあなたの声迄 掠れさせて居たのだろう」という部分です。つまり、

彼女は、自分が「女という立場からではない立場から」「あなたと交流・同化したい」

という矛盾したことを要求していることをこの時(ある体験から)悟ったのです。

 

そういうことを要求せざるを得ない自分、それが私であり、そして要求していることが

「いけない」事であることも同時に悟ってしまったんだと思います。

 

私はいけないことを要求してきたんだ、という”罪”を自覚し、それに対して”罰”、つまり

私は決して自然なかたちでは理解されないんだという感覚を持ってしまったんだという風に

理解してしまった、それが椎名林檎が演技的な行動をやっていく動機となったのでは

ないでしょうか。

 

いわば、彼女は

という思考を繰り広げたのではないかと、このように思うわけです。

 

ですから、彼女は”椎名林檎”という人格を作り上げて演じているのです。そして、その

”椎名林檎”がミュージシャンを志し、そして自分の居場所を作り上げてきたわけです。


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